夜半、石畳を踏みしめる音が彼の帰還を示していた。
 かつかつと夜の静寂を破って響く澱みのない音色に、寝台に俯せて敷布へ顔を埋めていた千尋は慌てて居住まいを正す。淡色の明かりに輪郭を滲ませる室内の調度は千尋の私室に設えられた彼からの贈り物、中つ国に身を置く職人の手による作とはだいぶ趣を異にする。
 その他にも緻密な細工の為された装飾品や常世ではあまり見られない青物を送られるたびに、「この国の后妃となっても、お前が中つ国の姫であることに変わりはない。細やかなものだが、よすがにすると良い」といつになく柔らかな切っ先を向けてきた男の紅玉の双眸は、深く千尋の体と胸の奥に囲われた熱情の塊を貫いた。
 思い出すと、ますます心がざわめく。
 右に左に落ち着きなく視線を払ってみても、足音はまっすぐ千尋を目指して迫ってくる。千尋の気持ちが固まるにはまだ早く、痛いほど脈打つ鼓動よりはいくぶん遅いペース。これなら忍び足で背後を取られた方がまだ気が楽なのに、姦計を知り尽くしているはずの男が千尋を相手取る時だけはいつだって小細工なしの真っ向勝負を好み、そしてそれが正しい行いであると信じて疑わない。実際、そうした男の一挙一動は千尋の心に漣を広げる。近頃すっかり臆病になった千尋にとっては、いっそ脅威だと言っても良かった。
 ああ、どうしよう。どうしよう。
 中つ国を取り戻す為に奔走した日々の中にも、これほど逃げ出したいと切望した例しはなかったように思う。無為に敷布を掴んで皺を作るしかなかった指を髪に通したら余計な癖がついたような気がして、無性に泣きたくなった。
 ひどく不安定な足場の上に立っていると錯覚する。だから寝台の下、よく研かれた冷たい床は服の裾から覗く熱を持った素足に束の間の安息と小さな震えをもたらす。現実の手触りに縋っていなければ、内から崩れてしまいそうだった。
 いつの間にこんなに脆くなってしまったのだろう。答えは至極単純で、分かり切っているものだけに、千尋は小づくりな白いかんばせに自らを嘲る笑みを貼りつけるしかない。
 思案に耽る間に観音開きの扉は開かれ、青い光の帯が広がる。黒く長い影が、伏せた千尋の視界にも飛び込んでくる。雷のように鮮烈な印象と、確かな存在感をもって。
「なんだ、起きていたのか」
 褐色の肌、濃い眉と、強い意志を宿す落暉の輝かしさを閉じ込めた光彩は男の雄々しさをより際立たせるが、整った目鼻立ちは王家に連なる血筋の高貴さをも兼ね備えている。
「慣れぬ床では眠れないか?そうでなければ、俺の帰りを待っていたのだと受け取るが…」
「………」
「いずれにしても俺には好都合だな。なにしろ今宵は、我が妃の白い肌膚が最も映える月夜だ」
「…アシュヴィン」
 膝まで届く外套を翻し、軽やかな歩みで寝台に腰を掛けた千尋との距離を詰める、今ではほとんど呼ばれなくなった男の名を声に乗せる。
 后妃たる千尋が無二の想いを捧げる皇、その人の名を。
「…浮かない顔だな」
 溜め息混じりに。妃の出迎えにしかしアシュヴィンは薄く笑んだ顔にこれと言って喜びの色を浮かべるでもなく、さも呆れたと言わんばかりに大きく肩を竦める。
「それほど俺と共寝するのが嫌か」
「なっ……!」
 明け透けな物言いを体が理解した瞬間、頭に血が昇って行くのを感じる。
 いくら何でももう少し言い方というものがあるでしょう!
 憤るままに怒鳴ってやりたかったが、余りと言えば余りの事態に我知らず舌が縮こまり、唇を戦慄かせても言葉がうまく滑り落ちてこない。ただ口をぱくぱくと開閉するだけの餌を求める魚みたいな千尋の有様に、アシュヴィンは堪え切れないといった様子でくつくつと笑いを零した。
「そんな露骨に慌てるな。余計に揶揄いたくなるだろう」
「っ…もう、やっぱりからかってるんだ!」
「まあ、楽しんでいないと言えば嘘になるがな」
 思わず立ち上がった千尋の、振り上げた手がアシュヴィンに届くことはなかった。いつの間にかすぐ傍まで歩み寄っていたアシュヴィンの皮手袋に包まれた手が、浮いた手首を掴む。
「千尋」
「は、離して…」
「ずいぶん可愛らしい真似をしてくれる」
 もう片方の手も真綿で包むようにやんわりと封じ込まれ、耳元に唇を寄せてくるアシュヴィンの動きを阻むものは何もない。短い金の髪を生温かい吐息が掠め、揺らして行く。熱くなった耳朶に、負けないくらい熱を持った皮膚が触れる。
 顔も手首も首筋も、アシュヴィンの真摯な眼差しに、大きな手に、心なしかいつもより少し早い呼吸に触れられた先から煽られ、昂ぶる。
「これでもまだ揶揄っていると思うか?俺はお前を、俺のものにしたい」
「や……」
「…嫌か?」
「ちが、違う、…そうじゃ、なくて……っ」
 顔を上向けると、西空の麓へ半身を沈める落日を写し取った瞳にぶつかる。
 アシュヴィンにはわからない。引き絞られるように急速に光が失われて行く黄昏時の終わり、根宮の窓より望む万物を染め上げる朱色を目蓋の裏に焼き付けて、千尋が誰を想っているのか。
 恥ずかしさを必死で堪えて、言われるがままに目もあやな薄絹を纏い、アシュヴィンの寝台で辺境の村へ視察に赴いていた彼の帰りを待ち続けたのは、何故だと思っているのか。
「嫌なんじゃない、の」
 どうにか絞りだした声は、情けなくも震えていた。
「…だって私は、アシュヴィンが、好きだから」
「………」
「だけど私、こんなことは本当に初めてで、その…どうすれば良いか、わからなくて……」
 泣きだしたい気持ちで告白すると、アシュヴィンは少しばかり目を見開いたあと、千尋から視線を外しながら顔を俯けた。やはり不慣れな女は嫌なのかもしれないと思った矢先、腕に籠もる力が増す。真綿は鉛色の枷と化し、千尋の自由を拘束した。
「自ら弓を取り豊葦原に再び恵をもたらした勇ましき比売神は、穢れを知らぬ乙女だったか」
「そんな言い方…」
「お前は、まったく…」
 急に手首を引かれ、驚愕の短い悲鳴を上げる間もなく腕の中に閉じ込められる。頭と腰を抱え込まれたまま体重を掛けられると膝は容易に折れ、背中を柔らかな緩衝材が受け止める。それが敷布の感触であると気づくのにそう時間は掛からなかった。
 天蓋の模様、照明の加減では誤魔化しきれない赤みの差したアシュヴィンの頬。それらがごく近い所で千尋に覆いかぶさっている。
「不慣れならもっと早く言うべきだったな。…優しくしてやるから、そう怯えるな」
 そう言うなり、羽根に触れるような手つきで千尋の頬に指を滑らせ始める。
 ただ純粋に慈しむ動きに次第に形容しがたい衝動が込み上げてきて、肌と肌が触れ合う傍からどろどろと溶け出しもはや原型を留めていない意識の淵で、最後の意思が働く内にすぐ目の前にあった唇に千尋自身のそれをそっと重ねた。
 薄らと開いた視界に、予想だにしていなかったのだろう不意打ちに目を見開いて固まったアシュヴィンの顔が映る。滅多にお目に掛かれない姿に千尋が口元をほころばせると、アシュヴィンは悪戯が露見した子供みたいにばつの悪そうな顔で千尋を見下ろした。
 千尋はひとり秘めやかな幸福を胸に抱き、顎を取られてより深くなる口づけに攫われてゆく。




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