常世の国は未だ眠りの底にあり、皇の居城である根宮は澄んだ静寂と、揺らめく篝火に包囲されている。穏やかな夜にまどろんでいた千尋は、はじめ自分を揺り起こす手が誰のものだかわからなかった。耳朶に当たった唇に、「出掛けるぞ」と低く湿った声を注がれるまでは。がっと目を見開き跳ね起きた千尋を見て、隣で肘をついていたアシュヴィンは声を漏らして笑った。暗闇の中にあってもそうと分かるまで顔を赤らめた千尋が反撃に出る前に、前のめりに傾いだ体を易々と抱え上げる。短い悲鳴が聞こえたが無視した。中つ国が戴く王としてはあまりにも華奢な体。丈夫なお世継ぎを産むにはもっと精をつけなければ、口さがない年嵩の女官にそう指摘され、やはり同じように顔を赤らめて恥じ入る様はたいそう愛らしかった。口に出すのは憚られるが。今もしきりに下ろしてと訴えアシュヴィンの胸板を抵抗とも呼べないか弱い力で押し退けようとする、はかなげな手弱女。これがかつての戦場では神をも貫く弓を取り、自ら一軍を率いて陣頭に立った。にわかには信じ難い少女の雄姿を、あるいは中つ国の軍勢に奮起を促すための風聞だったと取るものもあるだろう。それも構わない。そもそもあの目を、戦に赴く千尋が前を見据える瞳に浮かべた覚悟の比類なき美しさを知るものは、アシュヴィンひとりだけで充分なのだから。出会ってよりこの方、尽きることを知らない熱情の名を自覚するのはこういう時だ。
 黒麒麟のいななきが轟く。まごつく千尋を外套でくるみ前に乗せ、アシュヴィンが手綱を握った。
 それから数刻もしない内に、ふたりは群青に塗り潰された浜辺へと降り立った。アシュヴィンは砂に足を取られがちな千尋に手を貸して、海岸線に沿って歩く。
 どうして急に、出掛けようなんて言い出したの。
 潮風に靡く千尋の髪の金色は、山向こうに身を沈めた太陽を誘うかのように煌めいている。
「お前と共に見たかった。とこしえの夜に侵された国の、黎明を」
 今やアシュヴィンは一国を負う皇だ。長きに渡る戦はそこかしこに深い爪痕を残し、行く手に待ち受けるのは明るいばかりの未来ではない。玉座は無数の骸と怨嗟の声の上にある。いずれ腕を引かれ足を取られ、身動きが取れなくなる時もあるかもしれない。それでも。アシュヴィンの隣には千尋がいる。常夜の国に朝を喚ぶ、金髪碧眼の比売神が。
 言葉から数拍をおいて、包み込んだ手をゆるく握り返された。
 じきに夜が明ける。




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