兄様の隣で花のように微笑む綺麗なひとを僕は知っている。
「義姉、」
 回廊に連なる柱と柱の間に立ち、うすぼんやりと景観を滲ませる朝の陽のもとで短い草と淡色の花弁を一面に敷き詰めた庭園を眺めるそのひとを呼ぼうとして、出かかった声を中途半端な所で止めた。幸いなことに聞き付けられなかったようだ。義姉様は身じろぎもせずに視線を外界に向けて固定している。
 色素のうすい髪と瞳は、永い眠りから目覚めて間もない深緑を背景に、一枚絵のようによく馴染んでいる。鼻梁の通った横顔を盗み見る内に、今度政務が一段落したら緑の斎庭に誘ってみようかと思いついた。今でも僕は外交の折々に目についた花を根宮へと持ち帰っては義姉様に贈ることが多いのだけれど、色とりどりの花弁にそっと顔を寄せて芳しい香りを楽しむたび、義姉様はどの花よりも華やかな笑顔を浮かべて「私もそろそろ外に出たいわ。覚えなくてはいけないことが多くて、もう目が回りそう」などと戯ればむのが慣例となっている。
 なにしろ好奇心が強くて行動力に溢れたひとだ。元が王族の出自である下地に生真面目な性格が加わって、とても勤勉な義姉様は今や史生と対等に渡り合うだけの知識と舌鋒を持つに至っているが、野に躍り出て羽を伸ばしたい気持ちはやはり捨てきれないのだと見受けられた。「千尋は何でも己が手で触れ、己が眼で確かめねば満足してくれないのさ」そんな台詞と、常世の国を股に掛け、日々治世安楽のため奔走する兄様の姿が思い起こされる。
 義姉様を連れ出すいい口実の候補をいくつか考えついていた僕はそれまでの思考を丸ごと放棄して、やっぱり止めておこうと意見を改める。なんだかいけないことをする気持ちで僕はもう一度だけ視界に入れた義姉様の横顔を網膜に焼き付けたあと、思い切り息を吸い込んだ。
「義姉様!」
 思いのほか大きく響いた声に目を瞠った義姉様は、こちらに気づくと唇を笑みの形にしならせて手を振ってくれる。凝った細工がされた絹の肩掛けが細らかな金糸とともにふわりと揺れて、光の中に浮かぶ立ち姿はまるで天女のそれのようだった。
 輿入れをした日の義姉様は今も采女の語りぐさになるほど綺麗だったと伝え聞くが、最近の義姉様はますます美しさに磨きが掛かっている。皇の寵を受けているからだともっぱらの評判だ。嬰児を抱ける日もそう遠くなかろうと色めく女官を見ていると、僕は心が仄かに温かくなったかと思えば、同時に胸に開いた穴からすきま風が吹き込んだみたいな苦痛と薄ら寒さに苛まれたりと、めまぐるしく変化する複雑な心境に陥る。これは義姉様が常世の政を学び官人の顔触れを覚え、より皇妃らしさを増すごとに僕の心に落とされてゆく、兄様には言えない秘密のひとつだった。
「おはよう、シャニ。今日は早いんだね」
「なんだか目が冴えちゃったから、庭を散歩しようと思ったんだ。義姉様も?」
「ううん。アシュヴィンが国境の平定に出掛けるって言うから、見送ったの。今朝になって急に言い出すんだもの、準備が整わなくて同行出来なかったわ」
「それ、絶対義姉様に付いてきて欲しくないから言わなかったんだよ。兄様は強いから大丈夫だろうけど、危ないことには変わりないもの」
「そんなことだろうと思った」と腕を組んで、頬を膨らませる仕草は年相応の幼さを窺わせた。大人びた面を見ることが多くてつい忘れがちだが、思えば義姉様と僕の年齢は、片手で足りるほどしか変わらない。
「私に内々の仕事を任せる方が、ずっと危険なのにね」
 くすくすと無邪気に笑う義姉様につられて僕も笑った。
「そんなことないよ。兄様なんて、陰では義姉様になら内向きのことを頼んでも大丈夫だって自慢しきりなんだから」
「…そ、そうなの?」
「僕にも出来ることがあったら手伝うから、いつでも言ってね」
「うん、ありがとう。シャニがいてくれて、本当に助かってるよ」
 その言葉と向けられる微笑みを、つい期待してしまっている僕がいるのも秘密のひとつだ。何種類も咲く花々の中から、一刻を費やして義姉様の好きそうな花を選り抜いて贈るのも、出来れば兄様ぬきで何処かへ出掛けたいと思うのも。兄様にはとても明かせない僕の秘密。
 会話に区切りがつくと義姉様は再び庭に視線を移す。今ここにはいない兄様の面影を、透き通った碧い瞳が懸命に辿っていた。畏れや不安をおくびにも出さずに無言で兄様の無事を祈る義姉様の纏う空気があまりに神々しくて何も言うべき言葉を見つけられなかったけれど、僕には義姉様の気持ちが少しだけわかる。
 だって僕も、ふと気がつくといつだって義姉様の後ろ姿を目で追っているんだ。




ブラウザバックでお戻り下さい。