「那岐」
 ゆるやかな落下のさなかにあった意識を引き止める声は夜のように暗く重い、顔の上を横切って伸びる長方形の光にしぶしぶ目蓋を持ち上げると、襖戸の陰に潜みながら那岐の様子を窺う千尋の曇った面持ちを認識してしまった。明日の御菜をどうしようか、宿題がどうしても終わらない、そんな気安い相談を持ちかける顔ではない。
 ためしに寝返りを打ってみたものの、弛緩しきった体とは別に一度覚醒の浜辺に打ち上げられた那岐の自我は自然に眠りの海から距離を取ろうとする。ままならない現状に、差し入れた指で乱暴に猫っ毛を掻き混ぜた那岐は、いつまでも物陰に隠れたつもりでいる千尋に焦れて口を開いた。
「なに。どうかしたの」
 自分でもそうとわかる苛立たしげな口調にびくりと幅の狭い肩が震えるのを見て、嘆息したい気持ちを抑える。上体を起こして、漏れ入る光の方に顔を向けた。
「……ごめん。こんな時間に」
「まったくだよ。それで何の用?つまらない用なら僕は寝るけど」
 千尋はそこで言葉を切り、しばしの逡巡を挟んでから「あの、ね」と切り出す。息を飲む音さえ聞こえてきそうだった。
「ちょっと、嫌な夢を見て…」
「嫌な夢?」
「よくわからないんだけど、嫌と言うか…すごく怖い夢。知らない人が剣を振り回していて、私は追いかけられているの。みんな見たことのない格好をしてた。変だよね、こんなの」
「………」
 ここは血生臭い戦さとは縁遠い現代日本で、幾重もの結界に周囲を囲まれた安全地帯だ。命の危険を覚えるのがむしろ難しい平穏な世にあって、那岐も千尋も、出来るだけ足音を忍ばせようとして失敗している小さな気配や蚊の鳴くようなか細い声に何ひとつ気づけない、日常の隙間に挟まった違和感も簡単に見過ごせるような、無神経な人間であれば良かった。そうなれば、少なくとも睡眠時間は今より多くなったはずだ。安らかな眠りが刻一刻と遠ざかってゆくのを感じながら、那岐は寝台から完全に立ち上がり、開きかけの襖戸に手を掛けて室内着に包まれた千尋の総身を露わにする。
「…入る?」
「いいの?」
 いいもなにも、ちらりと那岐を振り向いた顔が喜色に満ちていることが、眠りに落ちる瞬間よりも決定的な安堵を那岐にもたらすのだから、仕方がない。
「起こしといてよく言うよ…どうせもう眠れないし、朝まで付き合ってもらうから」 
 迎え入れた千尋は御礼の言葉もそこそこに寝台の上へと移動し、毛布を被って壁にぴたりと体をつける。小刻みに揺れる体の円やかな線と、下履きの裾から覗く白い足首が目に鮮やかだった。那岐のまどろみの時はまた一歩遠くに追いやられる。歳月は流れ体つきもお互いにすっかり大人びていると言うのに、
 過去の記憶に怯え、膝を抱え込んで丸くなる千尋の姿だけは、いまだ胎児のようにいとけない。


お題配布元:CutterKnife(http://xym.nobody.jp/)様


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