「ラブレター?!」
 教師の仕事には何くれと雑事が付きまとう。
 今日は遅くなると思いますので、どうか先に済ませて下さいとあらかじめ断っていた風早に従った二人きりの夕食はあらかた終わり、テーブルには涼しげな硝子の器と、口直しにと剥いた林檎を残すだけとなっている。
 その中央へ叩きつけるとは行かないまでも、無造作に投げ出された封筒と何食わぬ顔で林檎を口に運ぶ那岐を、千尋は皿洗いに没頭していた手を止めて何度も見比べた。最終的に意識は封筒の方へ向く。
 薄桃色の下地に淡く滲む水彩で花模様が描かれたそれ。送付先に綴られた那岐のフルネームは角が取れていてやたらと小さく、いかにも女の子らしい可愛らしさを演出している。
 那岐が下級生の女子に注目を集めている。話には聞いていた千尋だが、噂を形として目にするのは初めてのことだった。一方で手紙を前にして何かしらの感慨を抱いても良さそうな那岐は、いたっていつも通りの無表情に終始している。それにしたってラブレターを受け取って浮かれる那岐を思い描く方が難題だとは言え、渡した相手のことを考えるといたたまれない。
「さあね。これで中身が果たし状だったら斬新だけど」
 挙げ句の果てには封筒を摘み上げ、素っ気なく吐き捨てる始末だ。歓迎している気配はまるで窺えない。
 渡した相手も那岐の実情を知っていれば、本当にラブレターではなく果たし状を送り付けたのではないかと千尋は思う。
 那岐は季節の花を模したシールで封をされた手紙を物珍しい視線で舐めるだけで一向に開けようとしない。放っておけば肝心の便箋は日の目を見ないまま、伝わらない気持ちと共に握り潰されるだろうことは想像に難くなかった。あくまでも那岐らしい、それがこの従兄弟の性格なのだと千尋は長い付き合いの内に折り合いをつけてきた。けれど、いくら気心が知れた相手でも許容出来ることと出来ないことの境界ははっきりしている。
 まなじりを吊り上げた千尋は、意を決して口を開いた。
「そんな風に言わないで。渡した人は真剣なんだよ」
 皿洗いを完全に中断してダイニングキッチンから身を乗り出した千尋が反論に出ると、何よりも先に厳しい視線が返される。
 千尋の反応を前もって予測していたかのような顔だ。
「なんで千尋に分かるんだよ。千尋が出した手紙でもあるまいし」
 声は言下に呆れと責める響きを帯びていた。
 那岐は過剰に干渉されるのを嫌う。
 千尋とてそれを承知しているから、普段はみだりに那岐の態度や交友関係に口を出さない。出来ない、と言った方が正しいかもしれない。誰に対しても無愛想な態度は幼い頃からある指針のようなものが頑なに貫かれていて、千尋の言及する余地がないからだ。交友関係については那岐自身がいつまで経ってもつまびらかにしようとしないせいで、友達と呼べる間柄の同級生が何人いるかも瞭然としないのに、それが異性となればなおさら親しく付き合っている相手がいるという話が聞こえてこない。
 しかしそんな那岐がいきなり学校で貰ったという手紙を提出し、おまけにそれがぞんざいに扱われる様を目の当たりにしては、たとえお門違いだと言われても黙って見過ごせようはずがない。
 生真面目な性格も手伝って、千尋は指をきつく握り込む。
「だって、好きな人に告白するのってすごく勇気の要ることでしょう。そんな風に軽く扱ったら、駄目だと思う」
 その内いくつも浮かんだ言葉の中から那岐の琴線に触れそうなものだけを慎重に選び取り、声に乗せる。それでもちらりと盗み見た那岐の顔の、どこか嘲るような色を含んだ表情が覆ることはない。
「だからさ、なんでそれを千尋が言うのかって訊いてるんだけど……僕にどうして欲しいわけ?」
「ちゃんと中を見て、それから相手の子に返事を返すの」
 鼻を鳴らして返事に代え、それっきり那岐は千尋から視線を外した。林檎を齧る音が、沈黙の落ちた部屋にいやに大きく響く。
 その間も、千尋は一心に視線を那岐の横顔に据えた。
 初めは林檎の咀嚼に専念していたものの、立ちこめる険悪な空気に先に音を上げたのは那岐の方で、眇めた目で千尋をひと睨みすると、大仰な溜め息をつく。
「…人の下駄箱に一方的に放り込む気持ちなんて、高が知れてると思うけどね」
「またそんなこと言う。那岐がそうやって皮肉るから、直接言いづらかったんだよ。きっと」
「理由なんかどうだっていいよ。返事が欲しいなら、その場で言えばすぐに返せたんだ。直接言ってこない相手を僕がわざわざ呼び出して、返事を伝えなきゃいけないって?そんなの、道理に外れてるじゃないか」
 「う」と短く唸って言葉を詰まらせた千尋に、「まさか、この上意に染まない返事を返せとか言う気じゃないだろうな」と畳み掛け、那岐は席を立った。件の手紙をテーブルに置き去りにしたまま、手には空になった硝子の器を携えている。少しでも有効な反撃を考えて身動きが取れなくなった千尋にずいと差し出し、「皿洗いにいつまで掛かってるんだよ」そう文句を言って無理矢理手の中に押しつけた。
 千尋が器を受け取ると、もう用はないとばかりに身を翻してリビングから出て行こうとする。ようやく我に返った千尋が慌てて静止をかけた。
「ちょっと、那岐!」
「なに。今日は風呂掃除も千尋にまかせていいんだ?」
「そうじゃない。返事をどうするかは那岐の自由だけど、せめて手紙は開けて」
 首の動きだけで振り向いた那岐は露骨に嫌そうな顔をしていた。今度は千尋も怯まない。
「そんなに開けたかったら、千尋が開けなよ」
「私が見ても意味がない!」
「初めから意味なんてないんだからさ」
「それなら、どうして私に見せたの」
 何気なく発した一言が、これまでのやり取りで微塵も動じなかった那岐の肩を揺らす。リビングと廊下の敷居を跨ごうとしていた足も止まった。
「那岐?」
 怪訝に思って名前を呼んでも反応がない。更に大きな声で呼び掛けようとしたとき、この日一番の苛立ちを満面に浮かべた那岐と視線がぶつかった。まだ言いたいことは山と有るのに、気圧された千尋は口をつぐむ他ない。那岐はもの言いたげに唇を震わせたが、為す術なく那岐の顔を見つめるだけの千尋の顔を見て、すぐさま開きかけたそれを固く引き結ぶ。
「別に、ただ何となく。…それより千尋。明日の英語、小テストが有るって分かってる?」
「……え、嘘っ」
「本当。千尋の成績が揮わないから、風早先生が嘆いてたよ」
 先生、の部分をあえて強調する那岐は、千尋の手元に洗いかけの状態で放置されていた食器を指差す。
「さっさとそれ片付けて、復習でもした方がいいんじゃない?僕も早く風呂入って寝たいし。掃除してくる」
 それだけを言い置いて、懲りずに呼び止めようとした千尋を今度こそ振り切った那岐は足早にリビングを後にした。手紙は結局、テーブルの上で置いてけぼりを食ってしまった。これでもう那岐は、夜が明けるまでリビングに戻らないだろう。
 後で襖戸の隙間から放り込もうと決意を新たにした千尋は勢いよく蛇口を捻り、皿洗いを再開する。スポンジで白い大皿の油汚れを擦り落としながら、手紙と一緒に残された不可解に首を傾げた。
 追求されることを不快に思うなら、何もこの場で見せる必要はなかったのに。
 全てを知っているわけではなくても、一緒に過ごした時間の長さは伊達ではない。相手にどんな話題を振ればどんな答えが返ってくるか、おおよその見当はつく。それは那岐も同じだと思っていた。那岐が千尋にこれとは違う反応を求めていたのだとして、いったいどう振る舞えば良かったのだろう。もう少し柔らかい言い方があっただろうか。わからない。
 那岐がわからない。昔はそうでもなかったのに。最近は特に那岐を遠く感じる機会が増えた。千尋が背伸びしても指先が掠めるだけの棚に那岐は手が届く。千尋には開けられないジャムの瓶の蓋を、那岐は簡単に開けられるようになった。身体的に見ればたったそれだけの違いが、いつからどうしてこんな溝を作ったのか。
 たしかに昔は背丈も同じくらいで、何の衒いもなく手を繋いでいた。それがいつしか、年を経るごとに距離が開いた。付き合いが長くなって、千尋が那岐を知った分と同じだけ、わからないことや突き放されることも多くなった。風早が「先生」になってからは、黄昏時に涙が溢れても無条件に抱き締められることはなくなったし、那岐と手を繋いで歩くこともなくなった。
 水切り台に食器を並べ終え、布巾で手を拭う。目線を上げれば薄桃の封筒が目に入る。
 エプロンを外した千尋はキッチンから出てテーブルに歩み寄り、封筒を手に取った。幼げで可愛い手書きの文字が、千尋の胸にほんの小さな痛みを落とす理由すら定かでないのに。
「…どうして、私に見せたの」
 その場に立ち尽くした千尋は、同じ問いを繰り返す。
 どうして。どうして、答えを求めているのに分からないことばかりが増える。
 ただひとり答えを知る那岐も、ぐずつく千尋を引っ張って導いてくれたかつての手も、今この場所にはない。



お題配布元:is(http://kratzer.fem.jp/is/)様
ここにあるのはこれだけ



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