ぞっとするほど赤い夕焼けを前にして千尋が泣きだすのは、たいして珍しいことでもなかった。
 大きな瞳が涙を浮かべるまで、楽しげに成型していた砂の城は脆くも崩れ去ろうとしている。何処の誰とも知れない子どもの忘れたボールが、肌寒い風に攫われてゆく。那岐は鬱蒼と繁る木立の間から舐めるような視線を感じ取り、泣きじゃくる千尋を自分の後ろに庇った。逢う魔時の公園はよろしくない。ひとりで手に負える相手ならば良いが、あまりに大きなものは風早の手を借りる必要がある。非常に不本意だが、強力な術には幼い体がついていかない。その点風早は大人で、昼行灯のくせに何故だかやたらと腕が立つ。千尋だって、いざ災厄がその身に降り掛かれば真っ先に風早の名を呼ぶんだろう。その判断は正しい。今の那岐には、すっかり冷たくなった千尋の手を取って、わずかばかりの熱を分け与えることしか出来ない。
 空いた片手で服の下に忍ばせていた勾玉を襟から引っ張りだすと、いやな気配が二、三歩後退したように感じられた。力量の差を自覚する能があるなら、おそらく雑魚ではない。このまま諦めて立ち去ってくれないか。程なくして那岐の願いは成就し、黒い影が霧散する。那岐はほっと息をつき、やはりこの世界も安全ではないとの認識を強めた。家の結界も張りなおす必要がある。
 そうと決まれば長居は無用だった。握った手を軽く引き、「千尋、帰るよ」と促す。千尋はこくこくと何度か頷いたあと、しかし歩きだそうとはせずに、体をぶつけるようにして那岐に抱きついてきた。「うわっ…」という悲鳴じみた声が人気の絶えた公園に響く。
 泣きだした千尋を優しく抱き締めて宥めるのは、風早の常套手段だった。千尋にしてみれば当たり前のことでも、那岐にとっては突然の行動に体を固くするしかない。どうしたものかといくら思案を巡らせても千尋が泣き止む様子はないので、風早の見よう見真似で背中に腕を回し、腰まで届く髪をやわらかく梳いた。我ながらぎこちない動きだと思ったが、千尋には風早の代わりとなり得る動きであったらしい。肩の震えは次第に収まり、頬を伝って地面にぽつぽつと染みを作った雫にはじめほどの勢いはない。
「千尋」
「な、…っ…那、岐……っ」
「喋らなくていいから。どうする?このまま帰る?」
 今日は風早が早く帰ってくるはずだけど。それとももう少しここにいる?千尋は躊躇ったあと、ゆっくりと首を縦に振った。那岐のシャツを掴み、しがみつく手はそのままで。
 那岐も千尋の好きにさせた。結局泣き止んだあとも千尋は那岐から離れず、しかたなく手を繋いで帰路についたのは、太陽が完全に沈み路傍の街灯が濁った光を放つ頃になってからだった。家の前では風早が全てを悟った顔で立っていて、その微笑みを目にするなり千尋は地面を蹴って駆け出し、千尋の身の丈に合わせて屈んだ風早の首に縋りついた。風早を心配させちゃうと言ってせっかく赤みが引くまで待った目尻は、新しい涙に濡れている。千尋はもう那岐を振り向かなかった。どれだけ取り繕っても最後は風早に縋るんじゃないか。まだまだ子どもだ。千尋も、そしてこんな些末なことに苛立ちを覚える那岐も。
「そんなに泣かないで下さい、千尋。風が冷たかったでしょう。まずは家に入って…ほら、那岐も」
「ああ」
 慣れた手つきで抱え上げた千尋の小ぶりな頭を撫でながら、風早は那岐に向き直る。何時も千尋を癒す微笑みは、那岐には真似のしようがない慈愛に満ちていた。
「よく千尋を守ってくれたね。ありがとう」
「別にあんたに礼を言われる筋合いはないよ。向こうが勝手に逃げ出しただけだし」
 そうか、とひとりごちた風早が玄関の戸を開けると、家の中から夕餉の匂いが漂ってくる。
「那岐はもう大人ですね。これなら、安心して千尋を任せられる」
 那岐は押し黙った。それは違うと声を大にして叫びたい気持ちを、そうだ風早の手は不要なのだと訴える自負が上回った。
 慰めるために指を通した金の髪の感触を思い出す。あの輝きを守る力が欲しい。
 幼い器と不釣り合いに発達した心が伴わず、それらがぎしぎしと耳障りな音を立てて摩擦を起こす。




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