油蝉はもはや致死的なアスファルトの照り返しも意に介さず、やかましく鳴き声を張り上げている。生まれた時からそれが自分の存在意義だと固く信じて疑わないのだろう。おめでたくて暑苦しい生き物だ。どれだけ懸命に太陽への思慕を謳おうと、この夏が終わる頃にはおそらく残響さえ消え失せている。
 公園の木陰になっているベンチに隣り合って座り、近場のスーパーで買ったばかりの氷菓子を開封した。陽は傾き、群れをなした烏が低く空を横断する。買い食いはいけませんよといつもにこやかに釘を刺す葦原家の良心は、今日は帰りが遅い。千尋はあまい匂いを漂わせる透明なシロップが染み込んだみぞれ、那岐は淡い橙のアイスキャンディをそれぞれ口に含む。ひやりと冷たい食感を追い掛けるように、よく熟した蜜柑の味が口内に広がった。
 思っていたよりもあまさがくどい。
 早々に完食する気をなくした那岐は再び齧りつくのを止め、押し出した舌でいびつな断面を申し訳程度に舐めたあとは屑籠の方へと体を向けた。丁寧に袋に戻したそれを投げ捨てる前に、まだ固い氷にいたずらに篦を刺しては抜き、溶けるのを待つ千尋の制止が掛かる。
「那岐、ちゃんと食べないと勿体ないよ」
「甘すぎるんだ。全部食べたら胸焼け起こしそう」
「なら、私のと取り替えよう。これならそんなに甘くないよ」
「は……」
 手のひら大の容器を安っぽい木の篦と一緒に臆面もなく差し出す千尋に、那岐は絶句する。
 これまでの経験上、千尋の「そんなに甘くない」は那岐の「割と甘い」に相当することは学習済みだった。そもそも蓋を開けた時点であまい蜜の匂いを感じるくらいだから、たぶん取り替えて済む問題じゃない。
 第一、最大の問題点はそこじゃない。
「…よせよ。食べかけだし」
「大丈夫だよ。まだ一口しか食べてないから」
 那岐としては何がどう大丈夫なのか問い質したい所ではあったが、逆に何を躊躇う必要があるのかという疑問が降って湧いた。目を丸くしてちいさく首を傾げる千尋の姿にひとり思い悩むのも馬鹿らしくなって、向き直った千尋からいい具合に溶けかけたみぞれを受け取り、代わりにアイスキャンディを渡す。千尋はやはり間を置かずに手に取ったそれを口元へ運び、「あ、美味しい。那岐が言うほど甘くないよ」これが甘くないって言うなら、温州蜜柑も野菜になるねとつい悪態をつきたくなるような感想を並べた。
 液体と固体の境界を意味もなくかき混ぜて、掬い取ったみぞれをひとくち含む。
「どうかな。食べられそう?」
「甘い」
 ぽつりと漏らした率直な返事を掻き消して、すぐ傍の木々から奏でられる蝉の合唱が耳に障った。日を追うごとに確実に、彼らは限りある命をすり減らしている。手を止めると氷はどんどん溶けて、次第にもとの形を失ってゆく。この夏が去ってしまえば、からからに乾いたなきがらと、手に付着した糖蜜のべたつきと、一過性の熱に浮かされたことに対する後味の悪い悔恨の情しか残らない。
 露出した千尋の肩は、ぼんやりとまるい輪郭を薄闇に浮き立たせる。苺のシロップみたいに赤い舌が独立した一個の生き物であるかのようになまめかしく蠢く。眩暈がするのは茹るような暑さのせいだ。時間が経つにつれてじわりと露のにじむ容器を持て余しながら、明後日の方角に視線を移した那岐は冷ややかなベンチの背もたれに、体温の上がった体を深く預ける。すっかりどろどろになったみぞれを熱冷ましにもうひとすくい舌に乗せると、口の中を余す所なく支配するあまやかな印象に辟易した。
「甘すぎる、こんなの」
 いつまでも形として残るものは重荷でしかなかった。
 さっさと溶けて消えてしまえばいい。




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