「異形の子」

 交通量が多くなった夕方の交差点で、信号の色を見る間も惜しみ無理に横断した通行人を耳障りなクラクションが詰る。
 隣に肩を並べた奴のヘッドフォンをくぐり抜けて、やたら速く攻撃的なビートが那岐の耳にまで届いた。制服を着た女同士の他愛のない会話。ビジネスマンが薄い携帯を耳に当てて怒鳴りつけている。
 その煩さに辟易するのはもはや日課に近い。信号が青に切り替わると、幾多の人と音が混じり合ってより複雑なノイズを生み出す。
 深く眉間に皺を寄せた那岐がひと睨みすると、無遠慮に人を指差し甲高い声で騒いでいた女学生がわずかに肩を揺らしてそそくさと人波に紛れる。まったく、どいつもこいつも煩くって敵わない。何も贅沢を言っているつもりはない。ただ、無闇に心を掻き乱されずに済むような、その静けさに誘われるまま眠りに落ちられるような、ささやかな静寂を求めているだけなのに、たったそれだけの願いを成就するのがこんなにも難しい。
 色素の薄い髪と瞳はこちらの世界ではそう珍しいものではないだろうに、那岐の容貌を指してひそひそと何やら囁く声はいまだに止む所を知らない。
 よくもまあ、そこまで他人に関心を持てるものだと嘆息せざるを得なかった。放っておけば良い、放っておいてくれれば良い。異形であることが足枷になるのは、向こうの世界だけで充分だ。
「煩い……」
 ほんの小さな呟きは春めいた生温かな空気に乗って空へと消え、那岐は立ち止まって足元に視線を落とす。
 人為的に作り出された原色と音の奔流。八百万の神々が息づき自然との共存を重んじる豊葦原とは何もかもが異なる異世界の、そこが利点と言えば利点ではあった。少なくとも遥か昔、けれどもいつだって鮮明に思い返せるすぐ耳元で絶えず響いていた水のせせらぎを日々の暮らしの中で喚起させられることはない。木々が伐採され土壌が汚染されるとそれらの気を基とする鬼道に影響を及ぼすが、この世界でひとりの高校生、「葦原那岐」として生きていく分にはそもそも不要な力だ。
 長く伸びた影。今日の夕食当番は那岐だったはずだ。早く買い物を済ませて帰らなければと思いながら、この場所から動けないのは何故だろう。
 ときどき、自分が何を求めているのか分からなくなる。
 騒音を疎んじながら、やがて訪れる静寂を恐れている。人混みを嫌うのに、周りからひとの気配が絶えることに不安を覚える。
 馬鹿げていると思った。

「お帰りなさい、那岐」
 上がりがまちを踏むと、千尋が居間からひょいと顔を覗かせる。
 靴がなかったので、まだ風早は帰っていないようだった。那岐よりはレパートリーの多い二人でなら、ありあわせの素材で適当な前菜をつくることも出来ただろうに。待たせてしまったなら悪いことをした。さっさと料理に取り掛かろうと、千尋との会話もそこそこに調理台に買い物袋を置く。
「ねえ聞いて那岐。今日ね、クラスの子と」
「なに。また出掛ける約束でもした?」
「それもあるけど…ほら、前に文化祭の話をしたでしょう?準備を始めるなら早い方が良いからって、催し物の計画を立てたんだ。今年は寸劇をやりたいって言ってて」
「………へぇ」
「それでね、どうしても那岐に……」
 そこでまな板に横たわった茸から顔を上げ、不自然に言葉を途切れさせた千尋を窺うといつになく神妙な顔つきが目に入った。
 訝しく思って「僕の顔に何かついてる?」と尋ねれば、「ううん。そうじゃなくて」と歯切れの悪い返答がある。
「那岐、なんだか寂しそうに見えたから」
「僕が?…どうして」
「なんとなく、だよ」
「………」
「外で何かあったの?疲れてるなら、私が夕食当番変わるから」
 途中で包丁を置き頭を抱えたので、台詞の後半は頭に入ってこなかった。
 千尋は普段鈍いくせに、変な所で聡くなるから困る。非常に困るのだが、気遣わしげな瞳と、何かを音にしかけて結局は言い淀む様子を不思議と煩わしく感じたりはしない。
 耳に残る喧騒が遠ざかっていくのが分かった。さらさらと流れる水の音もかすかに聞こえた葉擦れの音も、どこかに押しやられる。
 外から隔絶された世界にあるのは千尋の声と那岐の声。甘い蜂蜜色の髪と硝子玉みたいな大きな瞳。那岐とよく似た色彩なのに、千尋の持つ色の方がどこか淡く、目の奥に焼きついた。
「…別に何もないよ。千尋はいちいち変なことを気にしすぎ」
「変なことじゃないよ。那岐は家族の一員なんだから」
「僕は夕食の献立を考えるのが面倒なだけ。最近は菜の花ばかりだったし、今日は好きに作らせてもらうから」
「な、那岐だってきのこばっかりじゃない!」
 それらがひどく心地よかった。







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