「この花の赤は、人の血の色なのですよ」
 それは筆で水彩絵の具の色を乗せたような、優しく淡く豊葦原を包み込む春の光景としては異彩を放つ、しかし震えがくるほど美しく鮮烈な紅だった。
 連なりは一面の空と実り豊かな大地の狭間に薄紅の運河を渡し、ひとときの生を謳歌している。はらはらと散り中空に舞う花弁の風情は、日々の政務に疲弊した千尋の心を束の間和らげてくれた。瀟洒な装束に皺が寄るのも構わず、桜の木のすぐ真下、繁茂した緑の絨毯にころりと寝転がる。頬と言わず首筋と言わず、風に靡き悪戯に寄せては返す短い草の感触がこそばゆくも心地よい。頭と手足はいずれも怠さを訴え、一貫してこの場から離れたくないと駄々をこねる。遠目に眺めたらすぐ戻るつもりでいたし、そのように言い置いて供をつけずに橿原宮を出てきたのだけれど。図らずも采女を騙す形になってしまった。もっともこれが何度目の嘘になるかといえば、もう数えることも忘れた。毎年この季節になると足を運んでいるから、少なくとも片手で足りないのは確かだ。
 万が一あのひとに見つかったなら、王にあるまじき振る舞いだと咎められるに違いない。
 難しい顔をして、腕を組んで、反論を許さない怜悧な声で。「君は上に立つ者としての自覚に欠けている」「軽率な行動は謹んで貰いたい」あのひとが繰り返し口にした言葉は何度反復しても耳に痛い。厳しいひと。けれどその言い分は常に正しく彼の優しさに根差している。
「君は軽んじられて良い人間ではない。いずれ王となる身を惜しみ、常に毅然たる態度を貫くべきだ。民衆も将兵もそれを望んでいる」
「でも、忍人さん」
「…だがこうも長く戦場にいては、気詰まりな心地になるのもわからなくはない。だから今しばらくは耐えてくれ。この戦が終わったなら、」

 びゅうと強い風が吹いて、枝振りの立派な木々が一斉に騒めいた。下ろしかけた目蓋をゆるやかに持ち上げ焦点を結んだ先には、数ある木の中でもひときわ赤みのきつい花をつけ、誘うように甘やかな香りを漂わせる大木が根を張っている。千尋の顔のすぐ隣、その根元には、稲穂の海を彷彿とさせる山吹色の刀身が深々と突き立てられていた。

「我が君は、未だ蕾もつけぬ桜に心奪われておいでのご様子」
 あのひとと約束を交わした場所とは違ったけれど、道すがらに見掛けた桜の枝振りの良さに目を留めていた所に、後ろから声が飛ぶ。
「え…私、そんなに熱心に見ていた?」
「ええ。思わず妬けてしまうほど」
「もう、柊はいつもそれなんだから」
 そろそろ慣れた甘い言葉を軽く受け流し、柊の方を振り返る。
「春になったら桜を見に行く約束をしているの。だから、無事に元の豊葦原を取り戻せたら良いなって…考え始めたら、つい止まらなくなってしまって」
「おや、それは聞き捨てなりませんね。戦が終焉を迎えた暁には、是非私にも姫の御手を取らせて頂きたいものです」
「そうだね。皆でお花見に行くのも、きっと楽しいわ」
 そう言って朗らかに笑む千尋を前に、柊は隻眼を細めた。紫紺の瞳は千尋に向けられているのに焦点が合っていない、まるでどこか遠い場所を、遥か先の未来を見据えているかのような表情に、どうしてか心臓が低く不穏な音をひとつ響かせる。
「ですが、気をつけられた方が良い」
「…え?」
「古来よりあの花の赤は、人の血の色なのだと言います。埋葬された屍から糧を得ることで美しい花を開く。ひとたび魅入られては、格好の餌食となってしまいますよ」

 いま千尋の目の前には、それこそ他者の犠牲の上に生気を得たとしか思えない、蟲惑的な艶を帯びた花が揺れている。千尋の両腕の幅を合わせても及ばないくらい太い枝に縄を掛けて首を括るのも、すっかり色合いがくすんだように思える刀に体を寄せて喉笛をひとおもいに掻き切るのも、最後に視界に広がるのがこの花であるならばあるいはそれも良いかもしれない。そう思わせる魔力は、目には見えない所で確かに存在していた。
 けれど千尋は、八重咲きの花よりなお美しいものを知っている。
 慣れぬ政に携わり、生き長らえるのはその為だ。あまりに眩しくて手に取ることすら叶わず、水泡のように消えていったそれを、せめて片鱗だけでも見つかれば良いと今も飽かずに探し続けている。あのひとが望みついに勝ち取ったこの豊穣の国で。
 絶えることなく散り落ちる花弁が視界を横切った。体に降る赤い血の塊が、枯渇した千尋の泉に注ぎ満たしてゆく。
「この戦が終わったなら、君と桜を見に行ける。いつなりと、どの場所であっても。王が望むなら、俺はそれを叶えよう。俺は、君の傍にあり続ける」
 果たされることのなかった約束だけが、いつまでも千尋を縛りつける。いずれこの命を大地に還す時、最後を迎える場所がここであればと願った。千尋が息を潜めて横たわるその木の根元には、


 あのひとの亡骸が埋まっている。




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