かつてない大きな戦を前にして、士気を鼓舞しようと言うのだろう。千尋がひとりひとりの軍兵に声を掛けて回っている所為で、敵の懐へ入り込んでいると言うのに不相応な賑わいを見せる野営地からそう遠くない叢にひとり腰を下ろした忍人は、万一の奇襲に備えて破魂刀を抱え手ごろな木の幹に背中を預けていた。出来れば千尋のそばにいて彼女の護衛を続行したかったが、首をもたげた欲を振り切り見張り番を買って出た理由は、上官としての責任感からきた行動でも部下の能力に疑念を抱いているからでもない。ひとの気配が絶えているのを今一度肌で確かめてから、行軍の途次から忍人を苛んでいた息苦しさに深く息をつく。
 そんな些細なことですら、血を吐くような痛みを伴った。白昼の草いきれの名残と土の有機的な臭いがひどく鼻につき、口元を手で覆う。力なくあおのいた忍人の後頭部と、背に触れるところどころが隆起した樹皮の感触。何かに寄り掛かっていなければ体を起こしているのが辛い。
 抱え込んだ破魂刀に目をやる。もう黄金の刀身が禍禍しい黒色の粒子を纏うことはないが、忍人の体はそこここがぎしぎしと軋み、以前より精彩を欠いた動きはまるで間接の滑りが悪い人形のそれだった。自らの魂を燃やすことで力を得る魔剣。手にした瞬間からある程度の反動は覚悟していたものの、これまでに払った代価は忍人が当初予測していた以上に大きなものであったらしい。
 一度昏睡状態に陥り、戦力に穴を空けたことは既に内外を問わず知れ渡っている。不自然に乱れた呼吸と気脈を周囲に悟られるのも時間の問題だろう。現に千尋は時おり物言いたげな視線を忍人に送るが、忍人はそ知らぬ振りで通している。
 前線から外されると困るという戦力的な判断よりは、千尋を思い煩わせることへの躊躇いの方が強かった。
 あの姫は、どうしたって非情になりきれない。最大の美点であると同時に致命的な弱点でもある優しさが命取りになる前に、迅速に決着をつけなければならなかった。それが忍人の役割だ。こんな場所で立ち止まる猶予は許されない。せめて気休めになればと、忍人はさして重くもない目蓋を伏せ、熱い息をゆっくりと吐き出して呼吸を整えた。
 忍人の足先でゆらゆらと燃え立つ朱色の焚き火に寄りついた蛾が音もなく羽根を焼かれ、為す術を持たぬまま炎の只中へ墜ちてゆく一部始終を狭まった視界で傍観する。新たな燃料を得た炎は、よりいっそう熱と輝きを増したように思えた。
 光に焦がれ、遠くから眺めるだけでは飽き足らず手を伸ばしたが最後、瞬く間に引火する。その図式には覚えがあった。
 忍人の死は、炎よりも涼やかで美しい乙女の姿を取る。風に靡くこがねの髪と、蒼穹を想起する青い双つの眸に幾度目を惹かれたか知れない。幾度触れたいと思ったか知れない。数多の死線を潜り抜けてきた忍人が今更死を恐れるはずもない、ただ現世を離れることで二度とそれらを近い場所から庇護することが叶わなくなるのだと思えば、何とも物悲しい心地になった。
「どうかしている」
 ひとりごちる口元は、苦々しい口調に相反して微笑んでいた。これではもう、羽根を焼かれた蛾も同然だ。飛び立つ術を失い、凛と国の行く末を見据える死の形から逃れられない。魅了された者に待つ結末が灰塵と化す運命なのだとしても、彼女の威光を増す足掛かりになるのなら喜ばしいとさえ思える。
 草を踏みしめる音に目を瞠ると、焚き火の向こう側に忍人に向かって歩み寄ってくる千尋が見えた。華奢で小柄な体格だが、目立つ容姿なのですぐにわかる。傍らに供の姿が見えないことを幸いに思うか、軽率だと叱るかでわずかに悩んだ。
 足元の炎はいまだ誘うように揺らめいている。




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