遠く立ち並んだビルの狭間に日が沈もうとしている。
 塗料の剥がれかけたベンチは日中の陽光の恩恵を忘れて冷えきっていたけれど、いつだってそれぞれの仕事に奔走している私の両親ほどではない。視界の隅で揺れるブランコの、錆びた鎖同士が奏でるざらついた音だけが私に寄り添う。
 銀杏がきれいに色づいた公園で、木枯らしと空腹はいたって無感動に私を襲った。
 親に与えられた決して少なくない額のお金は手つかずのまま財布にしまってあったし、手足の指先がわずかに冷たくなった以外は体の調子は正常で、歩いて帰宅するのにも支障はない。
 それでもこの場所を動きたくない理由があった。
 一定の間隔をおいて点在しているまち針のような形をした街灯が、何度かの明滅を繰り返したあと、象牙色の光で足元に長い影を生む。この時季の日の入りは早く、青ざめた闇は既に間近まで忍び寄っている。
 どこか濁った人工的な光をぼんやりと見上げながら、漠然とこの後の行動に思いを馳せた。
 ここにいても、どうしようもないことは分かっている。
 もう誰かに手を引いて貰える子供ではないのだし、だいたい過去の私がこの場所でひとりきりで蹲っていたとしても、忙しいあのひと達はきっと探しにはこない。今日も昨日に引き続き家に戻っていなければ、私の帰りがいつもよりずっと遅いことさえ気がつかないんだろう。
 だから私は鍵を開けるといつも通りに冷えたフローリングを踏みしめ、明かりの絶えた部屋に体を滑り込ませ、静まり返った空間に身を横たえる。電子機器のスイッチを入れて、ありあわせのお菓子と出来合いの惣菜を組み合わせた献立でお腹を満たす。
 その図を脳裏に思い描くだけで背筋が寒くなった。一種の発作みたいなもので、私にはときどきそんな日常と呼ぶべき一連の流れからどうしようもなく逃げ出したくなる時がある。
 果たして今がその時だった。
 平日で、同じクラスの誰かに見られるのは嫌だったから、学校が終わってすぐに隣町の公園へと飛び込んだ。だからもう何時間もひとりでベンチを占領してしまっている。
 時計の針の運行だけを気にしている時間はお腹が空くし退屈だけれど、家にずっとひとりでいる時ほど辛くはない。
 無慈悲に吹き付ける風の冷たさよりも、きりきりと胃のあたりが締め付けられるような空腹の苦しさよりも、「ただいま」に「おかえり」を返してくれる人のいないことが、あの家でそんな人が表れる奇跡を膝を抱えて待ち続けることの方がずっと堪え難い。
 そういうことを考え始めると知らず瞳の奥から熱いものが込み上げてきて、思わず膝の上に乗せた学校指定の鞄に顔を伏せる。
 唇を噛み締めて、それこそ子供のように泣きたい衝動をどうにかやり過ごす。感情の奔流をどうにかせき止めるのに必死で、こちらとの距離を徐々に詰めていた足音には、最後まで気づくことがなかった。
「何してるの、君」
 聞き覚えのない声が頭上から降り注いだ。
 顔を上げてまず飛び込んできたのは、肩に引っ掛けるようにして羽織られた黒い上着だった。ふわふわした髪とは裏腹に、前髪の間から見え隠れする猛禽類を思わせる鋭い視線が私を射抜く。
 どれだけ記憶を辿っても面識のない相手で、似ているところなんてひとつも有りはしないのに、どこか他人を寄せ付けない雰囲気は幾ばくかの親近感を与えてくれる。
「…誰?」
 私が聞くと、その人は途端に片眉を上げていかにも不機嫌といった表情を作った。
「訊いているのはこっちだよ。君、こんな時間にこんな所で何してるの」
 まるで警察官みたいな聞き方をするけれど、その人はどう見てもそんなに年が離れているとは思えないし、白いシャツに詰め襟の上着は近くの学校の制服だろう。
 そんな見ず知らずの人に素直に答えるべきか迷ったけれど、特に明かすのが憚られるようなことはなかった。
「…帰りたくないの」
「何処に?」
「私の、家。私しかいなくて、とても寒いから…」
「ふうん」
 にべもない相槌だけが返される。
 どうしてこの人はこんなことを聞くのだろう。疑問を口にする前に、新しい言葉が投げかけられる。
「君の事情は知らないけど、この時間帯にうろつかれると困るんだよ」
 額面通りには受け取ることができない、いたって平坦で抑揚に欠けた声だった。
「…どうして?」
「最近この界隈で君ぐらいの女子を狙った不逞の輩がのさばっていてね。これ以上面倒が増えると嫌だから、さっさと帰ってくれない?君が囮になってくれるって言うなら話は別だけど」
 冗談とも本気ともつかない調子で言って、彼は皮肉げに口の端を吊り上げた。
 その形は彼の容貌にとてもよく馴染んでいる。逆らおうものなら容赦をしない、傲岸不遜な王様みたいだ。
「ねえ聞いてるの?」
「………」
「その耳は飾りなのかな。あんまりしつこいと…」
「……いや」
「聞こえないよ」
「いや。…帰りたくない」
「聞き分けがないね。何度も同じこと言わせられるの、嫌いなんだけど」
 そこで彼は目にも留まらない速さで、どこからか棒状のものを取り出した。
 特殊な形状をした、映画でしか見る機会がなさそうな。トンファーという武器だったと思う。
「僕は気が長い方じゃないんだ。また同じ忠告をさせるなら、強制排除になるよ」
 つまりこれは、要求を聞き入れなければ武器で殴り付ける、ということだろう。
 でも、そんなことをしたらここから動かすのに余計に手間が掛かるのでは…と考えて、非効率なやり方を自ら選ぼうとしている彼に、恐怖心を煽られるよりも先に可笑しさを覚えてしまった。
 だいたい、そうなっても別に構わない。もし私がここで怪我をしたとして、誰か気に掛けてくれる人がいるだろうか。きっと誰も心に留めてはくれないだろう。血の繋がったお母さんも、血の繋がらない「お父さん」も。
「?何が可笑しいの」
「…違うの」
 彼を笑ったわけじゃない。自分があまりにも滑稽で、悲しさよりも可笑しさが勝っただけだ。
「変わってるね、君」
 興醒めだよ。吐き捨てるように言って、その人は武器を握る手を下ろす。
 私から見れば、彼だって充分変わっているのだけれど。
「どうして?」
「僕の武器を前にして逃げ出さないなんて」
「…だって」
「誰もいない家に帰りたくないんだっけ?君、やっぱり変わってるね。他人に煩わされない空間なんて、一番落ち着くものなのに」
 さっぱり分からないという風に彼は首を傾げた。宵闇は街灯のスポットライトを受ける私と彼だけを取り残して、公園をすっかり覆い尽くしていた。
 目の届く範囲に他の人影はない。
 私の隣にも彼の隣にも誰もいない。そんな状態に違和感を感じさせることがない彼はきっといつだって、その空白に他人を迎え入れたりしないのだ。彼を見て初めに感じた親近感の正体を、ここにきてようやく理解する。
「あなたも…」
「なに」
「あなたもひとりなの…?」
 彼は、眉ひとつ動かさなかった。
「そうだよ。群がってきた人間はとっくに咬み殺してしまったしね。それがどうかした?」
「……ううん」
「変なの」
 そう言いながら向こうをむいた彼はひとりぼっちで、そして私もひとりぼっち。私たちはこのまま何かを分け合うことはないし、何かを共有することもないけれど、それはとても素敵な必然であるように感じられた。
 私が彼の顔を見上げると、その気配を敏感に察知した彼は私の瞳を食い入るように見つめる。しばらく無言のまま間をおいて、いつまでも続くかと思われた膠着状態は、彼の盛大な嘆息によって終焉を迎えた。
「埒が開かないし、もう良いや。君の家ってどこ」
「え…?」
「歩くのが嫌なら引きずってでも連れて行くよ。どうせ町中巡回するつもりだったし」
「…一緒に帰ってくれるの?」
「別に君のためじゃないから。勘違いしないでくれる」
 ひとつ頷いて、私はようやく冷たいベンチから離れることが出来た。スカートから覗く足を何度か擦って、やはり無言で公園の外に向けて歩き始めた彼の背を追う。
 急ぎ足で隣に並んでも、彼は切れ長の目で真正面を見据えたまま、何も言わずに私を許した。
 黒ずんだ木々の隙間を吹き抜ける風が容赦なく体温を奪っても、誰もいない家の扉を開ける鍵が鞄の中でささやかに音を立てても、もう涙は浮かんでこなかった。







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