おおよそ娯楽と呼ばれるものをいくつも身の内に取り込んだ複合施設は幾多の夢と莫大な資金を食い潰し、うらぶれた廃墟となり果てている。
 レジャーランドとしての機能はとうに失われているが、内部の構造は複雑で身を潜められる場所も多く、ならず者のねぐらとしては破格の物件だった。
 夜のとばりが降りたその中の一室では今、ローファーの足音が無機質に響いている。
 勾配の緩やかな広間を降り、ステージの中央に設えられたソファを見上げる。
 この場所に残されたものと言えば、それだけだ。
 いかにも捨て置かれたガラクタらしく所々に汚れが付着し、継ぎ接ぎの跡も露わで、スプリングの弾力が期待できない。
 それでもそんなソファの上で安らかに寝息を立てる彼女にとっては、そう悪くないベッドであるようだ。胎児のように背中を丸めて縮こまる姿は、普段にもまして彼女を小さく見せる。
 一部の壁面が崩れて灰色の骨組みが剥き出しになっている罅だらけの壁は、冬のはしりをまざまざと感じさせる大気の冷たさに拍車を掛けていた。寒々しい。主を失って久しいこの場所も、時節にまるでそぐわない彼女の腹部を露出した服装も。
 (…めんどい)
 足音を忍ばせずに接近したにも関わらず、一向に起きる様子がない。
 深く眠りを貪る彼女を揺すり起こした後のこと、あるいは彼女が体調を崩す可能性を思慮の外に追いやり、そ知らぬ振りでこの場から立ち去ること。どちらもその後の展開を思い描くことは容易で、いずれにしろ面倒な結末が待ち受けている。
 第一彼女の姿を認めた時点でとっとと立ち去らずに、こうして思い悩んだ時点で選択の余地はなくなっているのだ。
 気紛れを起こして散歩に赴くのではなかった。この場に居合わせてしまった自分の不運を恨むしかない。
 これが犬ならば、迷わず後者を選び取るだろうか。
 だがあれはあれなりに彼女を気に掛けているから、何だかんだと文句を垂れつつも起こしてやるのかも知れない。手段は多少手荒であっても。仮初めの立場とは言え、仲間を切り捨てられないボンゴレの10代目なら躊躇いがちに声を掛けるのだろうし、あの人なら。
 (骸様なら)
 どうするだろう。
 千種と犬にとっての彼女は、牢獄に囚われた彼と繋がるための貴重な連絡手段に過ぎない。しかし彼にとっての彼女はどういった位置付けの存在なのか、千種には未だにそれが分からない。
 この二人には、この二人にしか為しえない疎通がある。千種には聞こえない彼の声を彼女は聞き、同様に彼女の声を彼は聞いている。
 そこに介在するものが何なのか分からない。少なくとも彼女は自ら望んで彼に無上の信頼を捧げ、尊敬の念を寄せている風だが。それが一般に恋愛と呼ばれるものなのか、そう問われると首を傾げたくなる。
 (…考えた所でどうしようもない)
 彼女にかかずらうのはこれだから面倒だ。疑問はとめどなく溢れ、思考に収拾をつけられない。
 恐らくは犬も、似たような困惑を持て余しているのだろう。
 没頭する内に、空いた片手は眼鏡のブリッジを押さえていた。秋の夜に浸る室内は時間の経過とともに肌寒さを招き、眼鏡が汗で滑るということもないのに、どうにも癖になってしまっている。
 今日の夜はことのほか寒い。何食わぬ顔で眼鏡から外した手は定位置であるポケットには向かわず、いつの間にか丸まった彼女の背中に当てられていた。やはり面倒であるとの思いは払拭しきれず一瞬だけ動きを止めるが、既に彼女までの距離は至極わずかなものとなっており、思い直すにも今更だった。
「……クローム」
 そうして揺する動きを反復させると、小振りな唇の隙間からくぐもった声が漏れる。
「……ん…」
 焦点の合わない左目が緩慢に開き、千種の姿を捉えた。
 面積の大きな光彩に薄く映りこむ自分の表情が、普段と変わりないことに何故か安堵を覚える。
「…もう夜中だよ。野宿なら他を当たって」
「……ち、…くさ?」
「熱でも上げられたら、後々めんどいから」
 寝返りを打ち、ソファから落ちて垂れ下がった腕はひどく細い。少し強く握り締めれば、容易く潰れてしまうに違いない。
 これは千種とも犬とも、ましてや彼とは根本的に違う生きものだ。華奢で脆弱で、人を殺したこともなければ大罪を犯したこともない。
 にも関わらず、彼の指示とあらば戦場の只中に身を投じることも厭わない。だからこそ扱いに難儀している。
 床に置かれた鞄は無防備に口を開き、彼が振るっていたものと同じ三叉槍が覗いている。
 ふと、鈍く光る穂先の向こうに牢獄に繋がれたはずの彼の微笑が垣間見えたような気がして、千種は急いで踵を返した。背中越しに彼女が起き出す気配を感じる。
 (考える必要もない)
 彼は無二の主。彼女はそこへ至る為の筋道。
 いま思い巡らすべきことは、その事実以外に何もない。







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